ドムクス静岡 警察関係一切なし!秘密厳守
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家族の体験談
  

息子33歳 薬物依存症

中三の夏、眉毛が細くなり手にタバコを押し付けた跡をつくり、そして、タバコを吸うようになりました。部活が終わるとともに朝起きなくなりシンナーが始まりました。シンナーをやめさせようとあとを追いかけまわしたり、あちこちに相談に行きました。聞く耳を持たなくなった息子に馬乗りになって泣いて怒っても悲しいをしていました。何かとんでもない方向に歯車が回り始めたようでした。
そして、暴走族。このままではヤバイと場所を変えたり色々な職に就くものの長続きはせず。でもその中で結婚。シンナーは切れませんでした。どうしてよいか手をこまねいたまま年月が過ぎある時覚せい剤をしていると本人に告げられました。ドタバタの末逮捕、そして離婚。我が家へ帰ってきました。それにも懲りず覚せい剤を使用。病院の治療をすすめても拒否。おかしくなっていく息子にもうどうしていいかわからなくなりました。行き詰った時、保健所へ相談に行きました。そこで保健婦さんに遠いけれどとても素晴らしい人がいると紹介されたのが茨城ダルクでした。
電話をすると、まず、お母さんが家族会に通って勉強して下さいとのことでした。
初めて行った家族会は私にとって衝撃的でした。これは病気であること。そして何より薬物使用した人がこんなにも素敵で・・・ 息子も回復する可能性があるんだと知れば知るほど頑張る方向の違いを痛感しました。
そして最初のころは茨城へ。そしてドムクスの家族会に夫婦で通いながら、親兄弟の強烈なしがらみのなかで家族会に行くなら薬を使うぞといいつつ薬を離せない息子と、自責の念と、まだ親としてやり残してないかという思いをかかえたまま暮らして3年。去年の7月夫婦で家を出ました。ようやくふん切るチャンスが来たのです。言葉で話し合うことが出来なかった息子に行動で示すことで依存と共依存の関係を切ることが出来ました。
薬を使っているのに警察に言えない私がいました。怖かったのです。息子の見捨てないでほしいといういき場のない甘えと怒りがとんでもない暴力になってあらわれないかと。また、警察に売るイヤな親だと思われたくないという気持ちもありました。でも、家族会に通ううちに息子のこれからにとって私自身のこれからにとって一番必要なものは何か、どうすることなのかが少しづつ理解できてくるとともに迷う心が少なくなってきました。
これからはあの時の保健婦さんのような出会いになれるような私になっていきたいと思います。
依存症の回復したむすこと共依存の回復した私と会える日が来ますように!




ドムクス静岡 S.I

朝起きるとゆっくりコーヒーをいれて香りに酔いしれながら好きなジャズを聴き新聞を読む。こんな最高の時間を毎日いただけるなんて夢のようです。
もう過去のいやな出来事も思い出したくないしあまり覚えていません。
私、今、サイコセラピーを(大学市民講座)勉強してます。4年目です。勉強してから自分を攻めることがなくなりました。
自分自身の生活を楽しんで将来の夢も持てるようになりました。
本人がダルクに、私が家族会につながって7年ぐらいになるかなー。
水谷先生の講演会に行き(多分1番苦しんでいるとき)先生にTELして色々相談にのってもらい茨城ダルクを紹介していただいて現在に至っています。
それからゆっくりだけど本人と私が回復しはじめたのです。もちろん、家族会の仲間、イワイさん。ダルクのスタッフ。いろんな人達の支えと励ましがあったからです。私に今できることは苦しんでいる家族の人たちを暖かく迎えいれてあげることです。ドムクス静岡の家族会へようこそ!!
笑顔の私を見に来てください。
いつでも大歓迎です。毎日仲間に感謝です。
そして、本人にも感謝!こんな親だけど貴方のおかげで少しは成長したかな?ありがとうございました。



その1
会社の人が自分のほうを見て悪口を言っている。自分は会社でいじめられている。と訴えだした頃 今から約7年くらい前 長男Kはコンピューター会社でプログラマーとして残業 出張と忙しい毎日を送っておりました。その内朝起きることが出来なくなりとうとう退職せざるを得なくなりました。被害妄想は日増しに激しくなり外で会社の人がこちらを見ているとか会社の人の車があったから中を覗いたとか私たちはKが会社から苛められて精神的におかしくなったものと思い精神科へ連れて行きました。
医師から統合失調症か薬物中毒のどちらかと言われ薬中ということは絶対ないと思い次回の通院予約をしました。 2回目の通院の車中で「お袋、俺、覚せい剤の為にこうなったんだから医者に行く必要はないよ」と言われ頭の中が真っ白になりそのまま海まで車を走らせ海岸でテトラポットに激しく砕け散る波を見て気を落ち着かせKの事は私がきっと治すと心に誓いました。
それが二人を身動きとれない穴蔵に落ちるきっかけでした。
毎日のようにかかるサラ金の電話。借金の尻拭いをし疑心暗鬼にかられKの部屋を物色したり。私が落ち込むとそれを見てKも落ち込む。二人とも通院する有様でした。
日中仕事があり気がまぎれますが夕方帰宅してドアノブを回すときどんよりとした家に入るのがつらく生きているのか死んでいるのかわからない様な状態でした。
重い心を引きずって精神病院カウンセリングルームと10ヶ所くらい言った末最後にドムクスを紹介され何ヶ月か迷ってやっと電話をかけることが出来ました。
最初の家族会の折「何か言いたいこと」と言われましたが胸がいっぱいで涙が溢れてきて言葉になりませんでした。「皆そうなんだから いいのよ」と言われ、誰一人相談できず全部自分で抱えてきたのでこの場所なら何でも話せて暖かく相談に乗ってくださる同じ悩みを持った仲間がいると思い、心が軽くなり一筋の灯りが点ったようでした。自分が変わればK変わると信じ、何かわからない偉大な神の力を信じ、ともすれば共依存に傾く自分の心を戒める為、1ヶ月の心の選択をする為毎月の参加を楽しみにしています。
思えば自宅より40km足らず時間にして1時間くらいのところへ辿り着くまでに7年あまりの年月が流れました。
なによりもKが変わってきました。最初は尻込みしていた主人も私が明るくなったと一緒に通うようになりました。家族会は通える限り一生通いたいと思っております。


その2
 この度自分の体験談を書こうと思ったのは今までは心の中だけで呟き只々、涙を流す日々でしたが、家族会に参加し同じような境遇の人達と触れ合うことができたからです。
 前科・前歴を幾重にも重ねてしまった本人はもう30歳になりました。
親が始めてシンナーを吸っているのを知ったのは高2の秋頃でした。
それからというものはあちらこちらの友人宅に深夜まで入りびたりでした。
それからというものはあちらこちらの友人宅に深夜まで入りびたりでした。
4〜5人の仲間とシンナー浸りの日々でこの当時はポケットベルを持たせていたけどなかなか連絡もつかず心当たりの友人宅に息子の自転車が置いてないかと主人と手分けして探し回りました。そして見つけ出すと連れ帰り急いで寝かせ翌朝高校へ送っていく状態でした。
そしてまもなく警察に捕まり学校にも幾度となく呼び出されました。
それは突然な時ばかりなので主人の勤務状態も抜け出したり急に休んだり出来ないので母親の私ばかりで対応に四苦八苦していました。
頼りたい長男も早く結婚して別居していたのであまり負担をかけづらいこともあり益々苦しみました。最後には毎日車で送迎までして何とか卒業できました。
 このあたりから今考えれば共依存の不遇な親の始まりでした。 就職も親の力で入ったけれど寮内でシンナーをやり退社しなければなりませんでした。その後は自宅に戻り自分で運送会社に入りトラックの運転手として働き出しました。しかし、マイカーの中でシンナーを吸っているため見つけては取り上げるなどの繰り返しで、不安定な状況が続きました。その上何度も自損事故などで車をつぶしましたがそれでもまた買い与えていた親でした。
 そんな中、付き合っていた彼女が妊娠したとの事で急に結婚の話になり先方の両親にもシンナーの件は結婚を機に止めるだろうからと賛成して下さったので精一杯祝福し人並みに式も挙げました。また、子供の親になる事だからと期待もかけました。
 しかし、アパートで新婚生活をスタートして間もなく3ヶ月ほどたったときに駐車場のトラック内でシンナーを吸引していたところを警察に通報されました。逃走し途中車で海に飛び込み死のうとしたそうですがテトラポットに宙づりになって助かりました。このとき嫁は7ヶ月の身重でしたが執行猶予の判決でしたのでこのまま頑張るというので親は生活費の援助を続けました。
 しかしその後も仕事はするけど3〜4ヶ月を周期にシンナーをやるため、嫁から電話で様子が変だからと連絡を受けるとやはりラリッたしゃべりかたでした。それでも嫁が必死で居場所を聞き出してくれるので私たち親は大阪であろうと長野であろうと会社のトラックで事故や事件になっては大変だと思い走り回りました。このときこのまま仕事を休ませようと思う反面休んだらそのままシンナー浸りの日々になることの心配で迷いながら私がしばらく仕事を休みトラックに乗り込みました。仮眠用のシート部分に隠れ外部に知られないように便乗を続けたりもしました。
 その後、子供が1歳3ヶ月の歩き始めた頃のことでした。結局本人は獄中にいて涙ながらの離婚となりました。本来夫婦仲に問題があったわけではなく子供月好きの性格だったのでクスリが抜けてからはかなり辛かったらしく1年8ヶ月の服役中精神不安定になり医療刑務所にいきそこに半年ほどいました。
 一方親もこの時は本当に無力感を感じたのです。それなのに離婚和解金、養育費など出所後も肩代わりするなど延々と援助し続けました。それ故にその後会社に復帰できたのに覚せい剤にまではまっていきました。再三会社に迷惑をかけながらも彼女を作り同棲生活をし、すべて借金生活三昧でした。
消費者金融への返済などまたも親が延滞利息の火だるまや、取立ての電話の恐怖心から何百万も一括返済の肩代わりをしてしまいました。
もうこれを止めるには警察に連絡するしか方法がないと決意した結果また服役を重ねる事になりました。
親も息子を警察に訴えた負い目から刑務所へ何度も面会に行き差し入れなどをしました。
 そんな中『ドムクス・しずおか』を知り平成16年2月初めて家族会に参加し現在に至っております。この間、認知症の母をあずかっていた状況の中本人が出所してきて同居する事になりました。本人は小学校以来の友人のところへアルバイトに行っていて楽しくやっていると思っていたのにまたも3〜4ヶ月が限界でクスリに戻っておりました。服役中に知り合った仲間から宅急便で覚せい剤を手に入れるようになり、給料では足らなくなり借金も自己破産で出来なくなったため親にせびる生活になりました。
 時には大声で怒鳴りドアを壊したり椅子を蹴飛ばしたりして親を威嚇するようになりました。夜中は幻覚で家を飛び出し車で出かけようとするので私たち親は外出着のまま床に就く日々でした。
 家族会は実母をあずかる事になってから出席できず中断しており、ダルクへの道もあったのですがまだそのときはためらっていました。でも、もうこれ以上前科を重ねても回復の効果もなく悲劇になるばかりと思い「聖明病院」に相談し入院予約しました。しかし、前日に車で逃げ出そうとしたので長男と主人と主人の友人を含む3人がかりで無理やり連れて行き入院させました。私はカーテン越しに泣きながら・・・。今度は刑務所に入るんではないからいいんだ・・・!と、こんな状況になってもまだ息を呑む思いで見送っていました。
 やっとの思いでこの入院中以前服役で保留になっていた友人の連帯保証人の借金などの件で弁護士さんに相談し免責手続きをしました。これですべて今まで尻拭いしてきた最終結果だと思いました。
 入院中面会には主人しか行きませんでした。その時ダルクの話をしても耳を貸そうともしなかったそうですが施設のスタッフの人達が院内のミーティングに訪れてくださっていて、急にその気になってきたようです。
 そしておかげさまで6月より入寮しております。この間に実母も亡くなりましたが」私たちも落ち着きを取り戻すことができ、家族会にも参加できております。
 最近においては共依存症を病んだ私たち親が息子の自立への成長を押しつぶしてしまった事を深く反省するようになりました。施設で暮らす本人も仲間たちとミーティングで語らいながら心の中を吐きだしていることと思います。このまま施設で落ち着いて自分の道を見つけていけることを願いつつも私たち親は今後2〜3年後には年金に頼る生活になり、不安が募っています。
 しかし、今は今日一日の平安を祈る毎日です。
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